模様とは何か


   序

 私は前から一度この問題を取り扱ってみたかったのである。だがことが難

しく自分の考えの未熟を想うて時が長く過ぎた。しかし美の問題を思う毎に、

いつもこの題材に戻ってくる。それほどものの美しさと、ものの模様化とに

は密接な関係が感じられた。模様の意義を解くことと、美を解くこととは同

一の意味がある。そう私には思えるのである。特に工芸美と模様とには深い

結縁が潜む。工芸美の意義を強く想う私は、模様の問題を忘れることが出来

ない。


   一

 話を具体的なものから始めよう。ここに日本で紋章としてしばしば使われ

る笹の図を例に挙げよう。笹を見事に模様化して、一つの紋にまとめている。

一般には余り見慣れているため、とりわけ感興を起こさぬかも知れぬが、私

はそれを優れた模様の一例にとりたい。どんな性質をその模様が有っている

か。なぜそこに美しさが感じられるのか。どういう条件が模様を「よき模様」

にするのか。


   二

 さて、笹紋と笹とを比べて見よう。吾々はそこに如何に類似があり、又如

何に差異があるかに気づくであろう。類似というのは、その紋が直ちに笹を

思わせるからである。差異というのは、それが一見して笹の実写とは遠いか

らである。模様は真実であり而も工作である。


   三

 笹と笹紋とどこに性質の差異があるか。笹は天然の所産であるが、模様は
                          ナマ
これに人間の見方が加わっている。自然のままの笹はまだ生である。それは

ただ与えられた素材に過ぎない。それに一つの内容を賦与するものは見方で

ある。見方を有たずば見ても見ないのと変わりがない。笹は誰にも見られて

いる。しかし誰も同じようには見ていない。まして誰もがその美しさをよく

見得ているのではない。中には見ても感じを有たない者があろう。有っても

浅くより受取らぬ者があろう。笹に美しさが出るのは、それを美しく見る見

方が加わるからである。笹紋は見方によって整理された笹だと云える。凡て

の模様は見方の所産である。それ故模様は天然の複写ではなく、新しい創作

である。笹は自然のものであっても、笹紋は人間の作物である。


   四

 それなら見方とは何か。与えられたものの何を見るのであるか、又どう見

るのであるか。見方にも様々あろう。しかし見方のうち最も純粋なものは直

観である。理智は部分を見るが、直観は全体なるものに働きかける。平たく

云えば本質的なものへの直接な感得である。その直観された本質を再現する

時模様が生まれる。直観が弱まれば、模様も只形式的な図案に終わる。単な

る図案は理智的な構図に過ぎない。直観が鈍ければ、それを形の上で強いて

組立てるより仕方がない。だがよい模様は直観で捕らえられた本質的なもの

の姿である。今の時代に優れた模様が乏しくなったのは、如何に直観の力が

鈍ってきたかを証拠立てる。


   五
                ナマ
 それ故模様は、与えられたものの生の姿ではない。写生ではない。それは

直観に映るものの「幻像」である。ブレイクの好んだ言葉を借りれば「想像」

'Imagination' が生みなすものである。模様は非現実的である。これを「非

合理的」'Irrational'なものと呼んでもよい。或る意味では誇張である。模

様と実物とは違う。模様はものの科学的転写ではない。一つの笹紋が、あり

得べからざる笹であることは誰も知っている。笹紋は笹ではない。笹の象徴

である。

 だが驚くべきことに私達は却ってそこに笹の笹を感じる。感じればこそ笹

紋である。あり得べからざる笹紋が何故笹の笹を示しているか。

 模様はものの精髄描写である。本質なるものこそ、ものの生命である。笹

紋が笹の笹を示すのは、それが笹の生命をよく捕らえているからと云えよう。

直観がものの本質を見ている時、それを模様で見ていると云ってもよい。単

なる紙上の図案は死んだ形式に過ぎぬが、よき模様は意味に溢れてくる。模

様は活きたものの姿である。活々せずば模様ではない。かかる意味で非実際

的な模様ほど、真の写実はないとも云える。それはしばしば迫るほどの美を

含むではないか。模様の象徴性はここでは単なる空想ではない。真の象徴こ

そ真の写実だと云ってよい。そこには切実な笹の姿があるのである。私は再

び云おう、笹紋には笹の笹が見出せると。


   六

 私は又他の一角から模様とは何なのかを眺めよう。それは本質なるものの

表示であるから、二次的なものを棄て去った形とも云える。他の言葉で云え

ば与えられたものの単純化である。凡ての無駄を取り去って、なくてならな

いものが残る時、模様が現れるとも云える。そこに説明的饒舌はない。「不

言の言」がなければならない。それ故よい模様はいつも簡潔である。単純化

出来ない限り、まだ充分にものの模様化は来ない。かかる意味で真の模様は

装飾というより寧ろ無地の心を示したものである。だがかかる簡素を粗略な

ものと解してはならない。禅語を借りれば、「一切を含む無」とも云える。

模様は限りない含蓄である。この含みが多い時こそ、模様に動が現れてくる。

模様は静中の動である。静動一如がその境地である。静なくば模様はなく又

動を欠いて模様はない。


   七

 なぜ笹紋に笹の姿が活々と浮ぶか。そこには笹の結晶された姿があるから

である。笹の精が如実に示されているからである。味に譬えれば煮つまった

味である。模様はものを煮つめた姿である。それが美しいのは、味が濃いた

めである。それは美のエキスである。素である。

 そこで私はこう云おう。ものを模様以上に美しく見ることは出来ないので

あると。丁度煮つまったもの以上に、ものの味を濃く味わうことが出来ない

のと同じである。私達は笹紋に最も美しい笹を見る。笹を美しく見る時、笹

紋に帰ってくるのである。だからどんな笹も笹紋より美しくはあり得ない。

私達は自然をよき模様以上に美しく見ることは出来ない。美しく見ていれば、

模様で見ていると云ってもよい。模様は美の結晶である。美を解することと

模様を解することとは一枚である。


   八

 だから凡ての結晶された模様には、美の強調がある。それは只の誇張では

なくして、真実なものの強化である。この強化なくして模様は模様にならな

い。その美に切々たるものがあるのは、かかる強調の勢いによる。だからよ

い模様はしばしば凄くさえある。ここでどんな模様もそれが美しい限り、必

然にグロテスクの相を帯びてくる。なぜそうなるのか。模様は美の強化だか

らである。それを偽りを有たない誇張と呼んでもよい。模様は与えられたも

のの、ありのままの姿ではない。寧ろあり得べからざるものの、ありありと

した姿である。だから模様はたとえ実写ではなくとも実写を越えた実相に達

する。どんなものも模様に入って始めてその存在を切実にする。模様は美の

迫力である。

 偉大な美の時代は、グロテスクの美を示さなかったことはない。弱い甘い

世紀にこの力はない。そうして凡ての真実なグロテスクは模様性を離れたこ

とがない。


   九

 かく想うと模様があって、始めてものの美しさに触れるとも云える。模様

は美の伝達者である。模様で吾々は自然への見方を教わる。よい模様は自然

をかく見よと教えてくれる。この世に模様がなかったら、人間の自然に対す

る見方は遥かに曖昧なものとなるであろう。模様には自然の自然がある。

 かく考えると自然があって模様が生まれるというよりも、模様があって自

然があるという方が更に真実である。模様は最もよく見られた自然だと云え

る。だから模様に自然への見方が集結されている。言い換えればその見方を

通して自然が始めてよく見られるのである。今まで見た自然より、もっと不

思議な自然が見られるのである。よい模様のない時代は自然をよく見ていな

い時代だとも云える。

 だから私達は模様に於いてより更に鮮やかに自然に接することは出来ない。

与えられたなまの自然より、模様化された自然の方がずっと美しい。模様で

自然が更に自然に深まる。模様以上に美しい自然はない。


   十

 なぜ模様がかくも美しいのであるか。模様は限りなく夢を贈るからである。

よい模様には説明的性質がない。説明するなら写生に止まる。模様は見る人

を想像の人にさせる。見る者に夢をもたせる。ものの美しさはそれがどれだ

け見る人に想像の自由を許すかによって決定される。

 模様は泉に譬えてもよい。湧き出づるものを人々に限りなく汲ませる。そ

うして汲めども尽きない水を贈る。人々にその尽きない想像を許すもの、そ

れを美しいものと私は云おう。美しい模様は限りなく見る者の心を迎える。

よい模様は見て見厭きない。美しさは人間の終わりない想像の世界に住ませ

る。人間は模様で美に酔う。模様を求める心は美を求める心である。模様で

世界が美しくされ、吾々の心も美しくされる。模様のない国は醜い国である。

美を見ない国である。美とは世界の模様化である。


   十一

 私は再び転じて模様のもつ性質を吟味しよう。模様で気附かれることは、

それが多かれ少かれ、対称的Symmetrical だということである。対称的でな

いと模様になり難いのである。かくすることが模様の踏む一つの必然的な原

理である。なぜそうなるのか。自然それ自身に遠い深い起源があるとこれを

説いてもよい。一葉の生え方、一枝の延び方、一弁の附き方、何れも対称の

原理を踏まないものはない。それは秩序なのである。秩序は数である。掟で

ある。法則に落ちついてこそものは安定である。与えられたものが一つの模

様に熟する時、吾々は自から秩序を踏んでいることが分かる。さもなくば図

が乱れて了う。乱れては醜さと交わり易い。特にものの単純化を求める時、

数の世界に戻るのを悟るであろう。数を象徴するものは対称の姿である。も

のの対称化と、ものの単純化とは同じ意味がある。単純化に現れる模様が、

均斉の道をとるのは必然である。よい模様は掟に立つ模様である。それは気

侭な姿ではない。模様の美には、法則の美がある。数の美がある。


   十二

 普通、絵画と模様とは区別される。絵画は自然の描写であり、模様は人間

が構成するものだという。だがこれ等のものが分離して来たのは、比較的近

代のことに属する。昔はこれ等のものには結合があった。古い絵画は著しく

模様的であった。昔に写実風な絵画はなかった。その発生は歴史が第二の過

程に移ったことを語る。だが進んで私はこう想う。今もよい絵画は模様的で

あると。模様と異なるものが絵画なのではない。模様に達しない絵画こそま

だ充分な絵画ではない。絵画だとて法則を離れては存在しない。優れた絵画

は秩序に生きる。描写が法に近づけば自から模様に帰ってくる。優れた絵画

は模様と一つである。模様の意義は絵画に於いても重要視されてよい。(こ

の真理が如何に今は理解されていないであろう)。だから絵画の方向は模様

である。歴史は新にきっとその過程を踏むであろう。模様にこそ絵画の絵画

があると、そう云っては過言であろうか。模様を離れたものが絵画なのでは

なく、模様に熟した時、絵画が更に絵画になるのである。


   十三

 それなのになぜ近代に於いて絵画と模様とが分かれてきたのであるか。そ

れは美術と工芸とが分離されたのと過程を等しくする。その原因の大きな一

つを個人中心の見方に帰したい。近代では絵画に於いて作物が著しく個人的

になった。否、個人の道が模様から絵画を離した。模様はさきにも述べたよ

うに法に従う。法に依るが故に非個人的である。よき模様はしばしば民族の

共有するものにさえなった。日本の松竹梅の如く、唐草の如く、朝鮮の桃紋

の如く、エジプトの水蓮の如く、西欧の獅子紋の如く、印度のなびくサイプ

レスの如く、大勢の者によって長い間、多くの作物に適応された。そこは一

人を越えた領域である。模様は個性に活きるよりも普遍に活きる。だから型

に熟する。型に達して模様が益々拡げられる。ここが個人的絵画と分かれる

所以である。だから古い時代は今と違い、個人はいつも静かであった。だか

ら絵画が模様に結ばれていた。謂わば非個人的な要素が多かったのである。

よい絵画を見て、その美しさの源を個性に求めるのは不充分な見方であろう。

寧ろ美しいものの多くは個人を越えた法に結ばれる。法の力に比べたら個人

の力はいとど小さなものではないか。そうして絵画が法に深く根ざす時、そ

れは必然に模様に帰る。法の絵画は模様的絵画である。絵画と模様との分裂

は正しい趨勢ではない。美術と工芸との分離が幸福ではないのと同じである。

共に近代で起こった悲劇である。古い絵画を凡て模様画と呼んでよい。


   十四

 私達はここでなぜ模様と工芸と結縁が深いかの暗示を受ける。工芸は一般

の工芸である。複数の工芸である。民衆の日々の用途に応じるのがその目的

である。僅かな個人のために作られる贅沢な品は、異例な工芸に過ぎない。

工芸は自から公有な性質を帯びる。それ故公な性質を有つ模様が、これに結

ばれるのは当然である。模様は普遍な性質を有つ模様である。模様はさきに

も述べた通り、型の美である。そこまで熟してこそよい模様である。工芸に

個人的な絵画はそぐわない。誰にも備えるのが工芸の本旨である。個性の露

わなものは決してよい工芸ではない。だから法に活きる模様の方が、個人に

活きる絵画よりも、もっと工芸に適するのである。よい模様は凡ての者に属

する模様である。模様性と工芸性とは血族である。

 近代では絵画が占める位置は重い。凡ては個性を尊ぶ風潮による。だが個

人を越える美が、更に重く見られる日は来るであろう。その時、模様の意義

は一段と高まるであろう。そうして再び絵画が模様の性質に深まる時が来る

に違いない。美術時代が工芸時代へ推移するのを予告しないわけにはゆかな

い。


   十五

 よい模様にはどんな力が働いているか。模様は人間の技が生むものである

が、寧ろ自然の理法を活かすのが、凡ての技の使命である。それ故模様は一

種の工作ではあるが、人間の造作というより、自然を更に自然に帰す技芸で

ある。それは人間が人間を誇り示すためではなく、自然の不思議な力を讃え

るためだと云える。だからよい模様に於いて、人間は法への忠僕たることを

示している。見るとそこには謙遜深い立場を見出すことが出来る。或はこれ

を人間が間接になる作物と呼んでもよい。人間の作用が間接になれば、それ

だけ自然の作用が直接になるとも云える。優れた模様を見ると、それが勝手

な人間の振舞いによるのではないことが分かる。寧ろ厳しく人間の誤りを封

じる道で、現わされているのである。不思議にも自然は人間に或る不自由さ

を与えることによって、始めてよい模様を得る自由を人間に許しているので

ある。それは模様の道を危険のない安全なものに保障するためなのである。

 では何が模様を安定にさせる力なのであろうか。色々あろうが、中でも三

つのことが重要である。第一は用途であり、第二は材料であり、第三は手法

である。これ等のものによく順応する時、模様が安全な模様となるのである。


   十六

 何より実例でこの秘義を語ろう。模様を規定する最初のものは用途である。

用途に逆らうなら、模様は存在理由を失うであろう。なぜ刺子着は襟元や袖

元や裾廻りに好んで模様を置くか。とかくや裂れ易いそれ等の個所が、刺子

で丈夫にされるからである。何も飾りのための飾りではなく、用途が招いた

刺子である。これがどんなに模様を必然なものにしていることか。用途を不

自由と解する人もあるが、用途に縛られてこそ、模様が確実さを得るのだと

考える方が正しい。不自由というのは人間の立場からの嘆きで、自然の側か

ら見たら、用途のためにどんなに模様が必然さを得ることか、この必然さを

欠けば、模様は概ね無駄なものとなるであろう。

 用途と結ばれる芸能を、人は不自由芸術と呼んで二義三義に解して了う傾

きが多い。だが、このような不自由性こそは、工芸の美の泉なのだとよくよ

く悟る必要があろう。用途に素直な性質なくして、よい模様への保障はない。

工芸の領域では用が美の泉になる。用美不二なのがその性質である。用に発

すれば、凡ての模様は根強い。


   十七

 更に模様を必然なものにするのは材料である。材料の性質に逆らえばよい

模様はむづかしい。だがこれを制肘と解してはならない。材料の特質に根差

してこそ、模様が安全さを得るのである。漆器の絵附けを見るとしよう。そ

れは漆の性質が招く独特の模様なのである。それは焼物の上に染附ける模様

と、どんなに異なることか。同じ染物でも、型染と筒描きとは決して同じ模

様を生まない。この必然さを無視して、どんな図でも描けると思うなら、一

つの図をも描けないに至るであろう。模様は素直に材料の招きに応ぜねばな

らぬ。かかるものであって始めて適した模様となるのである。人が気侭に描

く模様の如きは、はかない結果を示すに過ぎない。よい模様は寧ろ材料の拘

束が招く模様だと説く方がよい。そうしてこの場合、かかる拘束こそ、人間

の過ちを封じてくれる自然の志なのだと省みねばならぬ。材料に模様が順応

する時、醜い模様はあり得ないのである。


   十八

 第三に模様の確かな基礎となるのは手法であり、その手法から来る工程で

ある。紙の上で出来上がる図案の如きは心もとないのである。手法が進んで

招く模様を、素直に受け容れることが、どんなに大切であろう。なぜならこ

れこそは模様に誤謬を許さないからである。例えば絨緞の模様を見るとしよ

う。編むとか織るとかということから、必然に導かれて来るのが本来の性質

である。どんな模様でも作れると思うなら、忽ち罰を受けるであろう。手法

に制肘を受けてこそ、模様が絨緞に適したものとなるのである。それは絨緞

の美を完全にする。

 なぜ琉球の絣模様があんなにも美しいのか。その秘密は手法から来ること
         テイユイ
が分かる。それは「手結」と呼ぶやり方から生まれる絣なのである。この手

法なくしては生まれてこない模様なのである。同じ絣でも若し違うやり方を

すれば、同じ結果を得る望みはない。ましてこれを染物に置き換えたら、ま

るで異なるものに変わるであろう。手法が模様を決定するからである。だが

この束縛のお陰で、却って必然な模様が生まれてくる。どんな模様でも描け

るという自由を有たないことは、この模様であってこそよいという確実さを

与えてくれる。優れた模様はかかる安全さの恩恵に浴することが深い。


   十九

 かくして用途や材料や手法に順応する時、美が人間の過ちから解放される。

よい模様は自然の救いによることが大きい。謂わば他力的な恵みに依るので

ある。このことが著しい場合ほど、その美しさが確実である。かく想うと、

よい模様が如何に理法の救いに頼る結果であるかが分かる。模様道は他力道

である。

 だから模様の美しさは法による美しさだと強めて云いたい。法の芸能であ

る限り、それを独り人間の所業に帰してはならない。人間は只法を充分に働

かすための介添たるに過ぎない。そうしてかかる謙虚な立場に帰る時ほど、

人間の仕事が輝いてくる場合はない。


   二十

 模様で人間は人間を越えた大きな世界を見つめる。よい模様で吾々は始め

て美の秘義に触れる。

 かく想えば模様の意味と美の意味とには固い結ばりがあることが分かる。

ものの美化とものの模様化とは二つではない。美の問題から模様の問題を離

すことは出来ない。不思議にもこの真理は今まで大胆に云われたことがない。

しかし将来この秘義は素直に受取られるに至るであろう。よい模様を見るこ

とと美を見ることとは一つである。だから美の表現は、それが深い限り、模

様の相を執るであろう。凡ての美しいものは何等かの意味で模様的であり、

又模様的でなければならない。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 20号 昭和7年8月】
 (出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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